私たちの体には、ウイルスや細菌と戦う免疫システムが備わっています。しかし、この免疫が強く働きすぎると、健康な自分の細胞まで攻撃してしまうことがあります。アレルギーや関節リウマチなどの自己免疫疾患は、まさにこの「免疫の暴走」が原因です。
そこで重要な役割を果たすのが、制御性T細胞(Treg:ティーレグ) と呼ばれる免疫細胞です。Tregは「免疫のブレーキ役」として、過剰な免疫反応を適切に抑え、体内のバランスを保っています。
この画期的な免疫細胞を発見したのが、日本の免疫学者・坂口志文 博士です。1995年の実証的研究によってTregの存在を明らかにし、2003年にはその仕組みを解明。この発見は免疫学の常識を塗り替え、自己免疫疾患やがん治療など、現代医療に大きな影響を与えています。
この記事では、制御性T細胞の基本から坂口博士の発見、そして最新の医療応用まで、予備知識がない方にも分かるよう解説します。
制御性T細胞(Treg)とは|免疫の「ブレーキ役」
制御性T細胞(Regulatory T cell、略してTreg)は、免疫反応を抑制する特殊なT細胞 です。
通常、T細胞は体内に侵入した病原体を攻撃する「免疫の主力部隊」として知られています。しかしTregは逆に、他の免疫細胞の働きを抑える という、一見すると矛盾した役割を担っています。
なぜ「ブレーキ」が必要なのか
免疫システムは強力であればあるほど良い、というわけではありません。以下のような問題が起こり得るからです。
- 自己攻撃:免疫細胞が誤って自分の正常な細胞を攻撃してしまう(自己免疫疾患)
- 過剰な炎症:感染やアレルギーに対して過剰反応し、組織にダメージを与える
- 慢性化:本来収まるべき免疫反応が長引き、慢性炎症を引き起こす
こうした「免疫の行き過ぎ」を防ぐために、Tregは現場で適切にブレーキをかけ、免疫反応のバランスを保っているのです。
イギリス免疫学会の一般向け解説でも、Tregは「免疫システムの警備員」に例えられています。攻撃部隊が味方を誤射しないよう見張り、戦いが終われば速やかに鎮静化させる――それがTregの重要な仕事です。
坂口志文の発見|何を実証し、免疫学に何をもたらしたか
制御性T細胞の概念自体は1970年代から存在していましたが、長年「本当に存在するのか」「どの細胞がそれなのか」が不明なままでした。この謎を解き明かしたのが、坂口志文博士の一連の研究です。
1995年:CD4⁺CD25⁺T細胞の実証
1995年、坂口博士らは画期的な実験結果を発表しました。マウスからCD4とCD25という2つの目印を持つT細胞を取り除くと、自己免疫疾患が引き起こされることを示したのです。
逆に言えば、この特定のT細胞(CD4⁺CD25⁺T細胞)が体内に存在することで、免疫システムが自分自身を攻撃しない状態(自己寛容)が保たれていることを実証しました。
この発見により、「免疫を抑える側の細胞が実際に存在し、重要な役割を果たしている」ことが科学的に証明されました。論文はJournal of Immunologyに掲載され、免疫学の大きな転換点となりました。
2003年:FOXP3という「設計図」の発見
さらに2003年、坂口博士らはFOXP3(フォックスピースリー) という遺伝子がTregの発生と機能を制御する中心的な因子であることを突き止めました。
FOXP3は、いわば「Tregになるための設計図」です。この遺伝子が働くことで、通常のT細胞がTregへと変化し、免疫抑制機能を獲得します。逆にFOXP3に異常があると、Tregが正常に機能せず、重篤な自己免疫疾患が発症することも分かりました。
この発見はScienceとNature Immunologyという世界トップクラスの科学誌に掲載され、Tregの概念を決定づける こととなりました。現在では、FOXP3の発現がTregを同定する国際的な基準となっています。
免疫学に何をもたらしたか
坂口博士の発見は、免疫学の理解を根本から変えました。
- 従来の考え方:免疫は「敵を攻撃するシステム」
- 新しい理解:免疫は「攻撃と抑制のバランスで成り立つシステム」
この認識の転換により、自己免疫疾患や移植拒絶、アレルギー、さらにはがん免疫療法まで、幅広い医療分野で新たな治療戦略が生まれています。2024年現在、坂口博士の業績はノーベル賞候補として国際的に高く評価されています。
Tregはどう働く?攻める免疫と抑える免疫のバランス
制御性T細胞は、具体的にどのような方法で免疫反応を抑えているのでしょうか。ここでは、Tregの主な作用メカニズムを分かりやすく解説します。
4つの主な抑制メカニズム
Tregは、状況に応じて複数の方法を使い分けて免疫を抑制しています。
①抑制シグナルの放出
TregはIL-10(インターロイキン-10)やTGF-β(トランスフォーミング増殖因子ベータ) といった「落ち着かせる信号」を放出します。これらの物質は、攻撃的な免疫細胞(エフェクターT細胞)に「もう十分だ、攻撃をやめなさい」と指示を出す役割を果たします。
②免疫細胞の「燃料」を奪う
免疫細胞が活動するにはIL-2(インターロイキン-2) という成長因子が必要です。Tregは表面に大量のIL-2受容体を持ち、周囲のIL-2を積極的に消費します。その結果、攻撃的な免疫細胞は「燃料不足」となり、過剰な増殖が抑えられます。
③免疫細胞の活性化を妨げる
TregはCTLA-4(シーティーエルエー-4) という分子を使って、他の免疫細胞が活性化するために必要な「共刺激シグナル」を低下させます。これは、攻撃部隊が「出動命令」を受け取りにくくする仕組みです。
④直接的な抑制
必要に応じて、Tregはグランザイム などの物質を使い、過剰に活性化した免疫細胞を直接的に抑制することもあります。
身近な例で理解する
これらの仕組みは、私たちの日常生活でどのように働いているのでしょうか。
花粉症などのアレルギー反応
花粉という本来無害な物質に対して、免疫システムが過剰反応すると花粉症が起こります。Tregが適切に働いている人は、この過剰反応が抑えられ、症状が軽くなる可能性があります。
関節リウマチなどの自己免疫疾患
免疫細胞が誤って自分の関節を攻撃し続けることで起こる病気です。Tregの数が少なかったり機能が低下していたりすると、この自己攻撃を止められず、症状が悪化します。
感染後やワクチン接種後の回復
病原体を撃退した後、いつまでも免疫反応が続くと組織がダメージを受けます。Tregは「敵はもういない」と判断すると、炎症を鎮めて体を回復モードに切り替える役割を担っています。
「ブレーキ」「警備員」「審判」――Tregを理解する比喩
Tregの役割は、しばしば以下のように例えられます。
- ブレーキ:暴走する免疫を適切に減速させる
- 警備員:味方への誤射を防ぎ、秩序を保つ
- 審判:戦いの終わりを告げ、過剰な攻撃にイエローカードを出す
いずれも、「免疫の強さ」ではなく「免疫のバランス」を保つことの重要性を示しています。
医療応用の最前線|自己免疫・移植・がん治療での可能性
制御性T細胞の理解が深まるにつれ、さまざまな病気の治療に応用する研究が進んでいます。興味深いのは、病気の種類によって「Tregを増やす」戦略と「Tregを減らす」戦略の両方が研究されている点です。
①増やす・活かす方向(自己免疫疾患・臓器移植)
免疫が過剰に働きすぎる病気では、Tregを増やして「ブレーキを強化する」アプローチが試みられています。
低用量IL-2療法
IL-2という物質は免疫細胞の成長を促す因子ですが、ごく少量を投与するとTregだけを選択的に増やせることが分かってきました。
これにより、患者自身が持つTregを効率的に増やし、自己免疫疾患の症状を和らげる狙いです。関節リウマチや全身性エリテマトーデス(SLE)などで臨床試験が進められています。
Treg細胞療法
もう一つのアプローチが、患者から採取したTregを体外で増やし、再び体内に戻す「Treg細胞療法」です。
特に臓器移植の分野で注目されています。移植後は通常、拒絶反応を防ぐため免疫抑制剤を一生飲み続ける必要がありますが、Treg療法によって免疫抑制剤の量を減らせる可能性が研究されています。欧州のONE Studyなどの臨床試験で安全性と有効性が検証されています。
現状の注意点
2025年10月時点で、低用量IL-2療法やTreg細胞療法の多くは臨床試験段階にあり、一般的な標準治療としてはまだ承認されていません。今後の研究結果次第で実用化が期待されています。
②抑える・外す方向(がん免疫療法)
一方、がん治療では逆に「Tregを減らす・無力化する」アプローチが研究されています。
なぜがん治療ではTregが問題になるのか
がん組織の周囲には、しばしば大量のTregが集まっています。このTregが「ブレーキ」として働くことで、本来がん細胞を攻撃すべき免疫細胞の活動が抑えられてしまうのです。
つまり、がん細胞は巧妙にTregを利用して、免疫システムから逃れているといえます。
CCR4を標的とした治療
がん組織に集まるTregの多くは、CCR4(シーシーアールフォー) という目印を表面に持っています。この性質を利用した薬剤として、モガムリズマブなどの抗CCR4抗体が開発されています。
腫瘍内のTregを選択的に減らすことで、免疫細胞が再びがん細胞を攻撃できるようにする狙いです。現在、PD-1阻害薬(免疫チェックポイント阻害薬)との併用療法など、複数の臨床試験が進行中です。
将来の可能性:抗原特異的Treg・CAR-Treg
研究はさらに進化しています。
- 抗原特異的Treg:特定の組織(移植臓器など)だけに反応するTregを作り、ピンポイントで免疫を調整
- CAR-Treg:がん治療で使われるCAR-T細胞療法の技術をTregに応用し、狙った場所だけで働くTregを設計
これらの技術が実用化されれば、より精密で副作用の少ない治療が可能になると期待されています。
よくある疑問Q&A
制御性T細胞について、多くの人が抱く疑問に答えます。
- Tregが増えすぎると感染に弱くなる?
-
バランス次第です。過剰なTregは感染やがんへの抵抗力を下げる可能性があります。
Tregは免疫のブレーキ役ですから、増えすぎると本来必要な免疫反応まで抑えてしまうリスクがあります。具体的には以下のような影響が考えられます。
感染症への抵抗力の低下
病原体と戦うべき免疫細胞の活動が過度に抑制されると、感染症にかかりやすくなったり、治りにくくなったりする可能性があります。がん免疫の弱体化
がん細胞を攻撃する免疫細胞がTregによって抑えられると、がんが増殖しやすい環境になります。実際、多くのがん組織では腫瘍内にTregが多く集まっていることが確認されています。一方で、Tregが少なすぎると自己免疫疾患や慢性炎症のリスクが高まります。
つまり重要なのは「多い・少ない」ではなく、状況に応じた適切なバランスなのです。健康な体では、このバランスが自然に保たれています。
- ステロイドなど従来の免疫抑制薬と何が違う?
-
従来薬は免疫全体を広く抑えるのに対し、Treg療法は「過剰反応だけを静める」精密化を目指しています。
従来の免疫抑制療法との主な違いを整理しましょう。
従来の免疫抑制薬(ステロイド・免疫抑制剤)
- 作用範囲:免疫システム全体を広く抑制
- メリット:効果が確実で、長年の使用実績がある
- デメリット:感染症リスクの上昇、長期使用による副作用(骨粗鬆症、糖尿病など)
Treg療法(低用量IL-2・Treg細胞療法)
- 作用範囲:過剰な免疫反応をピンポイントで調整
- メリット:必要な免疫機能は温存しながら、問題のある反応だけを抑える可能性
- デメリット:まだ臨床試験段階で、標準治療としての確立には時間がかかる
さらに将来的には、抗原特異的Treg や CAR-Treg といった技術により、「移植した肝臓への免疫反応だけを抑える」「特定の自己抗原への反応だけを調整する」といった、より精密な治療が可能になると期待されています。
ただし現時点では、これらの新しいアプローチの多くは研究段階であり、実用化には今後の臨床試験での検証が必要です。既存の治療法は引き続き重要な役割を果たしています。
まとめ|制御性T細胞を理解する3つのポイント
制御性T細胞(Treg)について、押さえておくべき重要なポイントを3つにまとめます。
ポイント①:Tregは「免疫のブレーキ役」
免疫システムは、病原体を攻撃する「アクセル」だけでなく、過剰な反応を抑える「ブレーキ」も備えています。Tregはこのブレーキ役として、自己免疫疾患や過剰な炎症を防ぎ、体内のバランスを保っています。
ポイント②:1995→2003年で概念が確立
坂口志文博士らが1995年にCD4⁺CD25⁺T細胞の重要性を実証し、2003年にFOXP3という制御遺伝子を発見したことで、Tregの存在と機能が科学的に確立されました。この発見は免疫学の理解を根本から変え、現代医療に大きな影響を与えています。
ポイント③:医療応用は「増やす/減らす」の二方向
自己免疫疾患や臓器移植ではTregを増やして過剰な免疫を抑える研究が、がん治療では逆にTregを減らして抗腫瘍免疫を活性化する研究が進められています。多くは臨床試験段階ですが、将来的にはより精密で副作用の少ない治療法として期待されています。
さらに詳しく知りたい方へ
制御性T細胞についてより深く理解したい方には、発見者である坂口志文博士自身が執筆した書籍がおすすめです。
『免疫の守護者 制御性T細胞とはなにか』(ブルーバックス 2109)
坂口博士が一般読者向けに、Tregの発見から最新研究までを分かりやすく解説した一冊です。研究の苦労や発見の瞬間、そして未来への展望まで、第一人者ならではの視点で語られています。

その他、以下の情報源も参考になります。
- NobelPrize.org:ノーベル賞公式サイトの免疫学関連資料
- British Society for Immunology:一般向けの分かりやすい免疫学解説
- 主要学術論文:1995年 Journal of Immunology(CD25⁺T細胞の実証)、2003年 Science/Nature Immunology(FOXP3の発見)
免疫のバランスを保つTregの理解は、これからの医療を考える上で重要な知識となるでしょう。
コメント